【事業アーカイブ】9/4 語りの場vol.25「二つの世界-精神医療と演劇の現場から-」
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- 投稿日:
- 2021.11.17(水)
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「語りの場」は、文化・芸術の分野で活動する方々をゲストとしてお招きする、トークシリーズです。市民のみなさんが新たな視点や価値観と出会い、知り(学び)、自らの活動を広げていくことで、魅力あふれる活動が、まちに根付いていくことをめざしている。
9月4日は、「二つの世界-精神医療と演劇の現場から-」と題し、ゲストに精神科医で劇作家の胡桃澤伸さんをお招きした。今回はお話の一部をご紹介する。
語りの場vol.25「二つの世界-精神医療と演劇の現場から-」
開催日:令和3年9月4日(土)14:00~15:30 ※Zoomにて開催
ゲスト:胡桃澤 伸(精神科医・劇作家)
精神科医として働きながら、北区つかこうへい劇団戯曲作法塾、伊丹想流私塾で劇作を学び、「くるみざわしん」の筆名で関西を中心に活動を開始。「同郷同年」が「日本の劇」戯曲賞2016と第25回OMS戯曲賞大賞、「忠臣蔵・破 エートス/死」が2019年文化庁芸術祭新人賞を受賞。医療をテーマにした作品では「ひなの砦」が2016年のOMS戯曲賞佳作。「精神病院つばき荘」が2017年の日本劇作家協会新人戯曲賞最終候補。2019年から東大阪市の就労支援作業所「リカバリースペースみーる」との共同製作に取り組む。共著に『中井久夫講演録 統合失調症の過去・現在・未来』、近著に『くるみざわしん 精神医療連作戯曲 精神病院つばき荘/ひなの砦 ほか3篇』(いずれもラグーナ出版)がある。
はじめに
今日お話しするのは、半分くらいは私が今まで学んだことで、半分くらいは今回のために考えたことです。面白半分で聞いてください。心理学の話というのは、聞きすぎると健康に悪いです。あまりにも濃度が濃いので、薬でいうと劇薬です。真面目に聞いてほしいですが、面白半分に聞いてください。
ゆとりや遊びを取り戻す
診察にきて、「実は私、昔は花を育ててたんです」といわれる方が結構いらっしゃいます。何か大事なものを失ってしまった、自分が傷ついた、という経験によって、「傷ついた」私だけになって、以前の花を育てていた私、というのが消えてなくなってしまう。これが戻ってくるのが回復なのですが、それがなかなか難しいときもあります。その人のすべてが悲しい、もう生きていけない、というひとつの状態だけに独占されて固まってしまう。
一方、花を育てている私が全く別のところにいる、という人もいます。これは例えば、花は一生懸命育てているけど、家の手入れとか、家族の世話とかと結びついていない。職場での自分と家での自分がばらばら、という場合があります。自覚してればまだいいですけれど、自覚していない場合もありますよね。二つの自分が切り離されてしまって、二つどころか、三つも四つも、その場その場の状況に合わせて何とかやっているけど、それぞれが矛盾していることに気づかない、これも不健康な状態です。
赤ちゃんが生まれたらお母さん、お父さん、まわりの大人は赤ちゃんのことに一生懸命になりますよね。花がすごく大事な時期だったら花のことに夢中になります。でも、その一方で「あ、今日夕ご飯準備しなくちゃ」って思っていられる余裕が心にある。それが健康です。この余裕が失われてしまうと、ゆとりと遊びがなくなって、心は不健康な状態になってしまいます。
花を枯らしてしまう理由になった過去の事実はもう元には戻らないです。でも、ゆとりや遊びを取り戻すような活動をすることで心は回復していきます。
夢と創作
夜に皆さん夢を見ると思います。夢では、突然場面が飛んだり、別の人物になったりします。夢は自分の中から生まれているはずなのに、ストーリーも、なぜ見るのかも、肝心の自分にはさっぱりわからない。もともと、昼間の状態は手に負えないもので、どうしても解決がつかないものがあって、そういう過去のわだかまりや苦しみが、寝ていて身体が動かなくてほかに何もないときにぽっ、ぽっと浮かんでくるわけです。何とかして矛盾を解きたい、辻褄を合わせたい、という働きが夢を見させているわけです。
創作も夢に似ています。自分の中から湧いてくるもの、抱えているものが沁み出してくる。人間存在の矛盾やそれぞれの人が抱えている矛盾、世の中が抱えている矛盾が作品の中に沁みだしてくる。何とか辻褄を合わせたい、人に伝わるものにしたい。これが創作だと僕は思います。
人間が人間を超えて人間になる
みんなが幸せになったら創作がなくなるかといえばそういうことはないです。人間の矛盾は消えないからです。だから、いくらでも創作の源はあります。
演劇の特色は演ずることです。別の人間になってみることで自分に近づく、そしてそれを観る、というのが演劇の醍醐味です。本来、人間は絶対に別の人にはなれないわけです。オンリーワンだけど、ワンオブゼムで、自分以外の別のオンリーワンにはなれない。ところがこの、自分以外のオンリーワンになる道が演劇です。これは人間という存在の根本的な矛盾に接近しますから、より大きな遊びやゆとりが必要です。そして、他の人と一緒に共同制作するわけですから、一個だけの答えを求めるわけではなくて、その人その人で異なるいくつもの答があります。なので、ゆとりとか遊びがどうしても必要です。しかし、どこまでもゆとりや遊びを大きくはできませんから、場所と時間を区切ります。区切られた場所と時間のなかで、「あの人は演じている」というルールの下でお客さんも楽しめるし、出演者もその場にいられるわけです。時間と場所に関して、厳密なルールがあって、この時間と場所を限って矛盾や葛藤を生きてみせる。解決してみせる。別の人になって別の人の気持ちとか苦しみを味わってほかの人に伝える。自分が自分のままでは近づけなかったものに、別な人になることによって近づくわけです。人間が人間を超えて人間になる。そういうことができる場所が演劇です。
状況は行き詰まっている
今、精神医療はかなり行き詰まっていて、当事者、ユーザー、患者さんといわれている人たちが、医療に頼らないで自分たちで何とかしようという動きが全国的に起きています。そういう方たちの中から「自分たちの声を届けるために表現活動をしたい」と演劇をやる方が現れて、そういう方々に出会ってを繰り返しているのが、今の僕の歩みです。
一方、演劇も行き詰まっているんじゃないかな、と感じています。お客さんも少ないし、大きな人に訴えかけるような訴求力のある作品が、なかなか出ていません。芸能人が出て、たくさんお客さんが入るような、商業的な作品が演劇だと思われています。コロナや貧困、分断など、解決が難しい問題・状況に応えるような作品が演劇からなかなか出ていないと思います。演劇の裾野が広がらないのも、演劇が行き詰っているからじゃないかと思います。精神医療も行き詰まっているし、演劇も行き詰まっている。それぞれの行き詰まりを破るための試みがあちこちで行われているということだと思います。
舞台づくり、居場所づくり
精神医療と演劇の出会いというのは、今後注目されていくかもしれないな、と思います。賞を取ったり、助成金が出たりすると、素朴な気持ちがだんだん失せていきます。ウケたい、お客さんに褒めてもらいたい、主催者に認めてもらいたい、とかいう動機で演劇をするようになる。しかし、認められることの危うさ、というのがあります。舞台を用意してもらえることはありがたいですけれど、用意された舞台じゃなくて、自分たちで舞台を作っていくことは、やはり必要だと思います。
こういう時に、「人間とは」「芸術とは」「医療とは」「教育とは」といったものについて考えるきっかけになることが大事で、これが「公共」を知り育てることだと思います。公共というのは人と共にあること、人と一緒にいられることです。役所のいうことを聞くことではありません。偏見や排除を減らして住みやすい環境を作る。そういう物理的な居場所づくりが、自分達の手で作品を作ることによって可能になるんじゃないかと思います。